★鉛筆

●鉛筆とは
鉛筆(えんぴつ)とは、筆記具・文房具の一種。主に紙に筆記するために使用する。

■特徴
鉛筆は筆記・書写・描画、製図などに幅広く使用される。通常の鉛筆の筆跡は消しゴムを用いれば消すことが
でき、そのため公的な書類などには用いることができない場合も多い。

形状は黒鉛と粘土の粉末を混ぜ合わせ高温で焼固めた芯(鉛筆芯)を,木などでできた軸(鉛筆軸)にはめた棒状のもの。
鉛筆の片側の末端部分を削って露出させた芯を紙に滑らせると、紙との摩擦で芯が細かい粒子になり、紙に顔料の軌跡を残すことで筆記される。

*黒鉛とは 炭素から成る元素鉱物。正式名は石墨 グラファイト(graphite)
元素分析以前には鉛を含むと思われており、ラテン語で鉛を意味するplumbumに由来するplumbagoと呼ばれていた。
日本語でもこれを直訳して 黒鉛とも呼ぶ。ただし、実際には鉛はまったく含まれていない。

■芯(しん)・墨芯(すみしん)
鉛筆芯は黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固めたものである。
鉛筆の芯は、黒鉛と粘土の割合によって、硬いものから柔らかいものまであり、
黒鉛の量が多いほど濃く柔らかい芯に、
また粘土の量が多いほど薄く硬い芯になる(例えばHBでは黒鉛約70%に対して、粘土約30%の比率) この配合の比率により硬軟度が決定される。
一般に、黒鉛が多く粘土の少ない芯は、軟らかく濃い。黒鉛が少なく粘土の多い芯は、硬く薄い。硬いものは芯が細く、軟らかいものは太い。
色の濃さは気温の影響を受け、同じ硬度でも夏期には濃く、冬期には薄くなる。また、黒鉛の粒子を細かくすることで書ける距離を伸ばすことができ、一本の鉛筆で約50kmほどの線を引くことができる。→筆記距離

■軸
軸木にはインセンスシダーが主流で鉛筆材のシェアの90パーセント以上を占めている。
ヒノキ、アララギ、ハンノキ、シナノキなども多く使われ、最近は合成樹脂の軸や、特殊なものでは紙巻きのものもある。

*インセンスシダー(ベイスギ)とは ヒノキ科オニヒバ属の高木。北米原産。別名ペンシルシダー。
鉛筆、農場用材、鉄道の枕木などに使われる。(Incence=香、香料)(Cedar=杉)という意味で、削った際の匂いはヒノキ系の芳香が特徴。環境保護のため伐採している原木は、 樹齢70年〜80年の二世の木で、樹齢250年以上の一世の木からは伐採せず、一本切るごとに二本植樹されている。
低価格で、十分な強度を持ちながら非常に削りやすいため、理想的な軸の材料とされる。

形状:黒鉛筆に六角形が多いのは、握りやすい為。握った場合、必ず3点(親指、人差し指、中指)で押さえるので3の倍数である六角形が手に馴染む。
また、転がりにくく机からの落下防止にもなっている。
色鉛筆が円型なのは、芯が黒鉛筆より柔らかく折れやすい為。墨芯鉛筆の芯のように焼いていないため、強度的に弱く、
芯自体の太さが太いため、軸が六角形であると芯と軸との表面の距離が短いところと長いところが出て、芯を十分に保護することができないと言われていた
(現在は、技術の進歩により、六角形の軸でも芯を十分に保護できるようになっている)
六角形の場合、握ったときに力が一点に集中してしまうが、円形だと芯の周りに同じ厚さの木があるため芯にかかる力が均一になり折れにくい。
また黒鉛筆は文字を書くことが主でずっと同じ持ち方をするが、色鉛筆は絵を描くために使ったり色々な持ち方をして使うので、指あたりのよい丸軸の方が便利という理由がある。
長さ・太さ:長さについては172mm以上で0.4ミリメートル以下の曲がり(反り)太さは最大径8mm以下とJIS規格で規定している。
この長さは消しゴムや止め金、装飾品などを除いた長さ。手帳用鉛筆は70mm以上。 これに近い長さを最初に決めたのは、
ドイツ人のローター・フォン・ファーバー(ファーバーカステル4代目経営者)とされている。
1840年頃に7インチ(17.78センチ)の基準を提案(六角形デザインの鉛筆)この長さは、大人の掌の付け根から、中指の先までの長さから取ったとされ、
この基準は150年以上経った今でも世界中で使われ続けている。

■筆記距離
鉛筆筆記距離はJISに定められていない。純粋に鉛筆芯のみを使い切ると50km近く書けると鉛筆組合の見解。
これは画線機を用いて長さ176mmの芯を筆圧300gで使用するという条件で導いた筆記距離であり、芯を一切削らずに全て使いきった場合の数値である。
保持の面でも現実的に書ける距離はこれより短くなることを加味しても、油性ボールペンの筆記距離は約1.5km、シャープペンシルの芯1本は約240mm。
これらと比較すると鉛筆は筆記距離の面で圧倒的に優れているといえる。

■硬度表記
硬度表記は濃さと硬さのランクをアルファベットと数字で表示する。これはロンドンの鉛筆メーカーブルックマンが開発した。
以前は各国や業者間で規格が乱立していたがこれに統一される。日本では一時期は中庸、一軟、一硬と表記していた。

黒鉛分が多く軟らかいものから順に 6B〜B,中硬質のF,HB,粘土粉が多く硬くなるH〜9Hまで JIS S6006により17種に分類されている。
なおBは black (黒い) Hは hard (硬い) Fは firm (引き締まった、しっかりした) の略。消しゴムやパンくずで消す事ができる。

JIS(日本工業規格)による黒芯鉛筆の硬度の種類は次のとおりである。
9H〜7H=硬質面に書写する場合に用いる特殊製図用 金属や石材などへの筆記/非常に硬い。
6H〜5H=細かい線を描く超精密製図用 製図・デザイン用/芯は硬く減りが少ない。
4H〜3H=精密製図用 精密製図設計用・一般筆記/硬い芯を好む方向け。
2H〜H=一般製図用、細字用 一般製図用/薄い筆跡を好む方向け。
F〜HB=一般筆記用、製図用 一般筆記用/最もポピュラー。
B=事務用、建築製図用、かきかた鉛筆 一般筆記用/やや柔らかい。小学校低学年向け。
2B〜3B=速記用 一般筆記用/濃く柔らかい。長時間の筆記におすすめ。以前はHBが鉛筆硬度の主流であったが20年ほどの間に2B硬度の物が主流となりつつある。
鉛筆を主に使う小学生の筆圧低下が一因とされる。
また、まだ自分で筆圧がうまく調節ができない低学年の子供には、少し柔らかい鉛筆の方が筆記が容易という点も挙げられる。
4B〜5B=一般絵画用 イラスト・デッサン用/筆記に強弱をつけることができる。
6B=特殊絵画用 イラスト・デッサン用/こすってぼかしに使えるほど柔らかい。
*10Hおよび7〜10B 三菱鉛筆が販売する高級鉛筆Hi-uniにのみ存在。2008年から発売。これを含むと全22硬
度となる。

※注 JIS規格の筆記規格はHBしかなく、基準値も0.25から0.42と幅広くその規格や強度等は基準内であれば「HB」と称してよい。
また「HB」の設定を基準に芯の硬度を決めるため、各社により同じ硬度記号であってもそれぞれ硬さや硬度は異なる。

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※三菱鉛筆 お客様相談室より引用 https://www.mpuni.co.jp/
※お絵かき図鑑より引用 https://oekaki-zukan.com/


一般に柔らかい芯ほど太く作られている。硬い芯は黒鉛分が少なく粘土の比率が多いため、筆跡は薄く、より細く見える。 ぼやけにくいため製図では硬い芯が多用される。
柔らかい芯は黒鉛分が多く、弱い筆圧でも濃い筆跡が出る。紙目が出やすく、定着性は悪い。減りも柔らかいほど早い。デッサンなどで筆圧表現を出しやすく、硬筆書写にも用いられる。
なお、これはシャープペンシルの芯も同様であるが、シャープペンシルの芯は同じ表記の鉛筆芯より硬く作られている。
事務用などに使用されるのは2H〜4Bくらいまでであり、事務用グレードの鉛筆にはそれ以外の硬度の設定はない事が多く、極端に硬い・または柔らかい芯の鉛筆は絵画・製図用の高級品にしかない。
この他日本の画材店では主にドイツ・イギリス・フランス製鉛筆が販売されている。 これら輸入鉛筆は日本と同様の硬度表記がなされているが、同じ硬度記号でも日本の鉛筆とは実際の硬さが異なる。

■特殊鉛筆
鉛筆の種類には黒鉛を使用した黒芯鉛筆と顔料・染料を主材料とする色鉛筆に大別できる。→色鉛筆
黒芯鉛筆には製図用、事務用、学習用、コピー用、感光紙用、絵画用、大工用、園芸用、手帳用、ガラス用などがある。
色鉛筆には赤・青の事務用、芯の軟質・中質・硬質に分かれた各種色鉛筆、それに特殊色鉛筆として絵の具鉛筆、グラフ用、ダーマトグラフ(紙巻き鉛筆)などがある。
色鉛筆は,白色粘土,蝋(ろう),顔料などを混合,JISでは54色を規定。ほかに芯を紙テープで巻き,ガラスなどへの筆記に用いる軟質色鉛筆(ダーマトグラフ)
木炭と鉛筆の中間的かたさをもつ絵画用のコンテなどがある。
なお、眉などを描くための化粧用のものとして化粧用鉛筆がある

■選び方

選び方一般的には次の点に留意して選ぶとよい。鉛筆は芯に不純物が少なく、書き味がなめらかで、軸が削り
やすいほど上等とされる。
(1)芯の滑りのよいもの。
(2)芯が崩れたりせず強度があるもの。
(3)書写線が均一に書け、摩耗度が少ないもの。
(4)軸が楽に削れるもの。
(5)芯が軸に完全に接着されており、芯抜けなどがおきないもの。
(6)塗装膜がじょうぶで強く、湿気や汚れから軸木を保護しているもの。
(7)軸が歪曲(わいきょく)していないもの。 しかし、鉛筆は天然の木を使用する為、保存の状態や木の性質など
のために曲りが全く出ないようにしたりすることはなかなか難しい。
(8)芯が軸の中心にあるもの。
(9)軸の木端(こば)が欠けていたり、芯の接断面が欠けたりしていないもの。

■製法
芯の製法
(1)黒鉛と粘土に水を加えてミキサーで混合、不純物を沈殿させる。黒鉛と粘土の割合で硬軟が決定される。
鉛筆に使用される黒鉛は鱗状(りんじょう)黒鉛と土状黒鉛という2種類がバランスよく含まれている。
日本は、これらの黒鉛の調達をおもに中国からの輸入に依存している。一方、粘土はドイツ産や中国産のものが使用される。
なかでもドイツの粘土は、鉛筆の芯作りに向いている適度な硬さがあり、なおかつ、不純物が含まれていないなどの理由から鉛筆の材料としては最適。

(2)練り合わせた原料に高い圧力をかけ、筒状に成形する。長く伸ばして約2時間程乾燥。その後、芯の焼成による酸化を防ぐため、坩堝(るつぼ)に詰める。

(3)できた芯を約1000度で3時間程焼き固める。この工程で粘土がしっかりと黒鉛を抱え込む。焼く時間は粘土の性質によって異なる。
焼きあがった芯は油などに入れられる。これは主になめらかに書けるようにするためである。油加工といい、その芯を油芯という。
粘土と黒鉛の粒のあいだに油が入ることで、文字を書く際に鉛筆が折れにくくなり、滑りがよくなる。ゆっくりと熱を冷ますと芯が完成。

軸の製法
(1)軸(じく)になる木は海外工場で板の形に加工されて輸入される。
この板をスラットと呼ぶ。木を鉛筆の芯の幅に合わせてカッターで削り、接着剤が塗られ、そこに芯を入れる。この溝に合わせ芯を入れる。

(2)その後上からもう一枚スラットを重ねて、圧力をかけピッタリと貼り合わせる。
(鉛筆の断面を見てみると木目が異なることがわかる)カッターで一本ずつ上下の面を鉛筆の形に削って一本一本を切り離す。

(3)塗料を重ね、硬度や社名などの文字などを高熱転写で刻印。最後に1ダースずつ箱につめて完成。

■歴史

筆記
7000年以前、メソポタミア地方の楔形文字は、粘土板に鋭利な器具で掘り込まれていた。
エジプト文字は植物の汁でパピルスに記され、バビロニアでは羊皮紙に記録された。
文化が進むにつれて文字の発達があり、文字を記録するための筆記用具が考案・発明されて今日に至った。

黒鉛の発見:鉛筆の始まりは、エリザベス王朝時代の1560年代に遡る。
1564年(永禄7年 室町時代)イギリスの北カンパ−ランドのボロ−デール山脈(スコットランドに境を接するイングランドの北部地方)で、
羊飼いが暴風雨で倒れた大木のあとに開いた穴の中から純粋で良質な黒鉛(グラファイト)を発見する。
羊に印を付けるのに役立つのではと市場に売られたのがきっかけで、その黒くなめらかな性質が注目され、細長く切り、
にぎりの部分をヒモで巻いたり、木で挟んだりして鉛筆の原型の筆記具として使われ始める。

1565年頃ドイツ系スイス人で博物学者コンラート・ゲスナー(独: Conrad Gesner)は、屋外での筆記やデッサンの為、
木や金属でできた丸い筒状の先端に黒鉛の小さな塊を詰めた自家製鉛筆を筆記具として使っていた。
現在のように大量生産され、消耗される以前はどれほど珍しく貴重なものであったかは想像に難くない。
装飾された鞘が作られたりしていることなどから、鉛筆が単なる筆記道具としてよりも、むしろ貴重品として扱われていたことを物語っている。

1565年にイギリス・ケズウィック(Keswick 湖水地方の街)で最初の鉛筆製造が始まったが近代のような製法ではなく、坑内から掘り出された黒鉛を精選し、
これを板状、または棒状にして板にはめ込むという簡易的なものだった。
黒鉛の発見は、当時苦労して図面や文字を書いていたヨーロッパ社会に大センセーションを巻き起こし、利便性からヨーロッパ中へ普及。
間もなく黒鉛は大量に採掘され、画家の需要を満たすために輸出され,17世紀には事実上あらゆる所で用いられるようになる。
イギリスのエリザベス女王は、黒鉛を使った鉛筆を国外に輸出し国力を高めた。

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※ 画像は日本鉛筆工業協同組合より引用 http://www.pencil.or.jp/index.html


乱獲:黒鉛はイギリス特産で主にイギリス産の黒鉛が多く使われた。
本格的に鉛筆が作られ始め黒鉛が注目されると、乱掘を恐れたイギリス政府は
「黒鉛を盗んだものには投獄または流刑の処罰を科す」といった特別保護法を定めて、採掘期間を年にわずか6週間と限った。
ボローデール山脈で採掘できる黒鉛は不純物が含まれておらず、容易に採取できる為に泥棒や闇商人たちに狙われ続けた。
採り出された黒鉛はロンドンの公設市場に運ばれ、毎月第一月曜日に競売されたが、その輸送には軍隊の護衛がつくほどであった。
黒鉛の海外輸出も法律で禁止され、製品だけが海外の鉛筆市場を独占した。
しかし、このような保護がなされたにもかかわらず、17世紀になるとボローデール鉱山は衰弱。もはや、純粋な黒鉛を採掘することは不可能になった。

この為にイギリスのあちこちで探鉱が試みられたが、結局ボローデール産に代わるような良質な黒鉛の鉱床発見されなかった。
イギリスの鉛筆製造業者は、これまで使っていた黒鉛の層を他の方法で加工し、鉛筆の芯に用いる為の模索が始まる。
(イギリスの黒鉛鉱は19世紀までに掘り尽くされ、現在では中国、ブラジル、スリランカなどで地下から黒鉛を採掘している)

さまざまな方法が試みられ、ファーバーやステッドラーが黒鉛と硫黄、アラビアゴム、樹脂、ニカワ等を混ぜこれを溶解して棒状の芯を作る方法を開発したが、
筆記時に引っかかりが生じてスムースな筆記性に欠け、やはり以前の純粋な黒鉛に比較すると格段の差があった。
しかし、他に良い製法も発明されないまま、これが長い間使用された。

ドイツでの製造:17世紀の初め、ドイツ・ババリア(南ドイツのバイエルン州 Bayern)のニュールンベルグに鉛筆職人が登場する。
ニュールンベルグ最古の鉛筆製造者はハンス・バウマン(Hans Baumann? 詳細不明)という人で1659年に亡くなっている。
その後、ツンフト(Zunft:ギルド 職人の同業組合)を作って仕事をした職人達から今に繋がる鉛筆メーカーに枝分かれしていく。

メーカーの台頭:1660年代、フリードリッヒ・ステッドラー(Friedrich Staedtler)が鉛筆職人として名を馳せていた。
フリードリッヒは当時、分業制だった黒鉛の加工作業とその黒鉛を包むホルダーの制作を統一した製法を考えたがニュールンベルク評議会によって規制される。
多くの試行錯誤の末についにニュールンベルク評議会によって承認され、鉛筆製造者のギルド制作を公認される。

1835年、ドイツ・ニュールンベルクでヨハン・セバスチャン・ステッドラーが鉛筆製造会社、J・S・ステッドラー社を設立。
ステッドラー一族の家業として鉛筆を生産・販売していたものを、産業革命の波を受け会社化された。
1760年頃にニュールンベルクのギルド(職人組合)の束縛を嫌った家具職人のカスパー・ファーバー(独:Kaspar Faber)が郊外のシュタイン村で鉛筆の製造事業を開始(現ファーバーカステル社)
ドイツの鉛筆工業は、英国製鉛筆に圧倒されて市場が限定され、その発展には非常な困難が伴ったが、政府の鉛筆工業奨励やその後フランスで発明された新しい製法の採用などで
品質向上、設備の改善につとめた結果、やがてババリア鉛筆として世界に進出することになる。
※ギルド 中世ヨーロッパの都市で発達した商工業者の同業者組合。

戦争:1793年にフランスはイギリスに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発。二国間の貿易が混乱、遮断され、イギリス産の黒鉛が輸入不可能になる。 戦争大臣のラザール・カルノーは、
技師・発明家のニコラス・ジャック・コンテ(仏:Nicholas-Jacques Cont?) に輸入原料に頼らない鉛筆の代替品の開発を命じた。
1795年にコンテが、硫黄の代わりに粘土に黒鉛を混ぜ、これを焼き固めて芯を作り、さらに混合の比率を変えれば芯の硬度が変化することを発見。 鉛筆芯製法の基礎となった発明であり、各国に普及。ここに初めて近代
的な鉛筆工業が誕生することになった。 現在も基本的には、このコンテの方法が採用され鉛筆の芯は製造されている。

*N・J・コンテ フランス人フランス政府科学部門の学者。デッサン用の描画材「コンテ」を発案。芯の硬度に番号をつけ、1.2.3...と数字で硬度の順番の表記をしたが、この方式は普及しない。

アメリカの鉛筆
米英戦争に伴い、ヨーロッパとの輸入が停止。多くの製品が不足している中、この状況を好機と考えた家具職人のウィリアム・モンロー(米:William Munroe)が鉛筆製造に着手する。
製法の知識が全く無い状態からのスタートでありながら、アイデアの剽窃を恐れた彼は一人で秘密裏に実験を重ね続けた。
ヨーロッパ製のような高品質のものは完成しなかったものの手作業での鉛筆が完成し、1812年ボストン州の金物屋でアメリカ製初の鉛筆が販売される。

1858年に画家ハイマン・リップマン(米:Hymen Lipman)が消しゴム付鉛筆を開発、特許取得。手間を省く為にミカワで消しゴムを固定させる発想はアメリカらしい合理主義といえる。
既存の2つの商品をくっつけるアイデア手法はハイマン法と呼ばれ、特許を取得した3月30日はNational Pencil Dayとして知られている。
アメリカの鉛筆といえば一般的に黄色軸のものが多い。
これは1890年にオーストリア=ハンガリー帝国(現チェコ共和国)発祥のL&C Hardtmuth社(現Koh-I-Noor Hardtmuth社)が有名な巨大ダイヤモンドにちなんで名付け
たKOH-I-NOOR(コイノール)ブランドをアメリカに持ち込まれたことが端を発する。他の鉛筆会社もこの高品質のブランドに関連するように追従し、この伝統は続いている。

日本の鉛筆
江戸初期にオランダから幕府、徳川家康に献上されたと伝えられている。つくりは現在の鉛筆とほぼ同じだが大きさは11cm程度の短いもので、渡来の経路は不明。
静岡県の「久能山東照宮博物館」に徳川家康公の遺品として保存されているのが、現存する日本最古の鉛筆である。また、伊達政宗の墓地、瑞鳳殿からも鉛筆が発見されている。

1853年にペリーが神奈川県の浦賀へ来航。開国を求め、幕府との交渉を開始する。その過程で、ペリー一行がアメリカの品物を日本人に贈ったことが知られており、その中に鉛筆が含まれている。
日本で本格的に鉛筆が使われるようになったのは明治維新後。
文明開化の世になり、西洋文化との往来が増え鉛筆の研究・発展が大いに進んだ。
明治6年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に、明治新政府は17名の伝習生をヨーロッパに派遣し、そのうちの一人として渡欧した藤山種廣(ふじやま・たねひろ 近代ガラス工芸の指導者)
井口直樹(いぐち・なおき 鉛筆工業の技術者)が鉛筆製法を伝えた。
帰国後、士族の小池卯八郎(こいけ・うはちろう)にその技術を伝え、日本国内での製造が始められた。
小池は翌年の明治7年(1874)に下広徳寺(銀座との説もある)に小池鉛筆製造所を開設して鉛筆の製造を開始した。
国産鉛筆黎明期の製造者として安政6年(1859)に開業した樋渡源吾が挙げられる。
第1回勧業博覧会で鳳紋賞牌を受けた。陸前牡鹿郡産出の鉛色土にゴム糊を混ぜて乾燥し、軸は桂を使用し、芯を乾燥させ、桂の管中に差し入れると記録にある。
なんと小池に比べ創業が15年も早い。
仙台藩に献上されたアメリカの鉛筆(A.W。ファーバー社製2B鉛筆)の詳細を仙台藩で百石取りの兄から聞き手にする機会を得て、製造に着手したとされる。

内国勧業博覧会:内国勧業博覧会とは内務卿・大久保利通が富国強兵・殖産興業政策の一環として万国博覧会をモデルに国内で開催された博覧会である。
明治時代は近代化促進のために数多くの展覧会が開かれており、これはその中でも代表的な博覧会になる。
小池卯八郎は、明治10年(1877)第1回の内国勧業博覧会に教育ノ器具として国産初の鉛筆を出品した。

三菱鉛筆の誕生 明治11年(1878)のパリ万国博覧会に出品された際に外国製のさまざまな鉛筆を見た眞崎仁六(まさき・にろく)は大変感動し、独学で鉛筆製造に取り組み始める。
しかし、製造の知識を持っていなかった為に研究は非常な困難を極めた。
国内で苦心して良質の材料を求め、黒鉛は鹿児島県加世田、粘土は栃木県烏山、軸木は北海道のアララギと決めて制作に取り掛かった。
10年後の明治20年(1887)に眞崎鉛筆製造所を東京に創業。
明治34年(1901)には逓信省(ていしんせい 現在の日本郵政)へ初めての国産鉛筆を納入。局用第壱號(2B)・第弐號(HB)・第参號(2H)を納入している。
納入の3種の鉛筆を記念して2年後の明治36年(1903)に「三菱」ブランドを登録。誤解されがちだが三菱財閥とは関係がない。
例のスリーダイヤの三菱マークは眞崎家の家紋をアレンジしたものであり、鉛筆が最初に商標登録をして使用し、後に三菱財閥が許可を取り使用している。
戦後の財閥解体の際、GHQが同社を三菱財閥系の企業と誤解しスリーダイヤの商標の使用禁止を命じたというエピソードもあり、当時の製品には非財閥、NON財閥と表記されていたという。

大正7年(1918)横浜に色鉛筆メーカーの「大和鉛筆」が誕生。大正14年(1925)に眞崎鉛筆と合併「眞崎大和鉛筆(株)」設立。昭和27年(1952)社名を三菱鉛筆(株)と改め、現在に至る。
語源 黒鉛(グラファイト)と粘土で出来た芯を木ではさんだ物を日本で「鉛筆」と呼ぶ。英語ではwood cased pencilで、日本では省略してpencilとする。
鉛筆を英語に訳すとpencilになるが、このpencilの語源は、ラテン語の「ペニシラム(しっぽ)」に由来している。初期の鉛筆は金属の鉛の棒を毛で包んだものでありその形がシッポに
似ていたところから名付けられた。

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